今年はジョージ・オーウェルの 生誕100年に当たるらしい(1903.6.25生まれ)。ル モンドのブロッグページ(Sur le Net) ではネットで入手できるジョージ・オーウェル関係の参考文献を列挙している。なかなか立派な図書目録である。原文テキストももちろん入手可能(グーテンベ ルグ図書館)。『動物農場』『象を撃つ』などが懐かしいが、何と言ってもすごいのは『1984』。いま読み返してもとても面白い。映画の「ブラジル」の底 本ともなった古典的名作である。あの中で「ニュースピーク」という人工言語を国民に使用させることで国民の思想統制を図るというくだりがあったが、「形」 が「内容」を決定すると言う意味で含蓄が深い。昨今流行の Blog に付いても同じことが言えるのかも知れない。
『1984』というのはSFで ある。40年後の将来社会はスターリン型の社会主義が支配する世界となっていた。国民は「ビッグ・ブラザー」と呼ばれるリーダーに日常生活すべてを監視さ れながら生きる。絶え間なく戦争が続いているらしい(本当のところは分からない)。ともかく戦争に勝利するためには国民はすべてを犠牲にしなければならな い。ケッサクなのはこの政府は古くさい英語を廃止して、合理的で例外が一切ない短くて能率的な言葉「ニュースピーク」を導入しようとしていること。真の目 的は国民の思想統制である。人間は言葉で考えるものであるから、言葉の構造が規制されるとその構造内でしか思考できなくなるのだ。いまだによく引用される テーマである。Google で調べると国語改革反対論者がオーウェルを引用して次のような論文を書いているぐらいだ。御笑覧↓
『1984年』 より「ニュースピークの諸原理」
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/1984.html
でもこのことからふと思いついたのであるが、今流行の Blog についても同じようなことが言えるのかも知れないということ。「ニュースピーク」はSF世界の国民にネガティブな影響を及ぼすのであるが、Blog は特に日本人の思考パターンにとっては逆によい影響を与えるのかも知れないのだ。Blog 形式の特徴としてタイトル、アブストラクト(要約)、本文の三つに分かれると云うことが重要である。
タイトルと本文は特にめずらしいものではない。問題は 「アブストラクト(要約)」。これは日本人はあまり書かないし学校の国語の授業でも要約の訓練は受けないのが普通だ。新聞記事のリードに当たるものだが、 新聞でも記者ではなくたいてい編集者が付ける。それで普通我々は本文だけを書くのであるが、多くの場合なかなかエンジンがかからないためか起承転結の 「起」の部分がだらだら続いてしまうことが多い。日本人の論文が分かりにくいと評される理由の一つだ。
ところが blog ではこれ(要約)を一番最初に書かねばならない。後から書いてもいいが、これが本文の一番上に表示されるので出だしてとしてまずこれを書くことになる。 XML/RSS でフィードされるのもこの部分だ。自分の主張をまず明確にし、本文を読んでもらうためのキャッチとしなければならない。この点欧米人はこれがうまく、よく できた英語の新聞記事では最初の5行を読めばだいたい全部分かるように書いている。新聞記者ばかりでなく学校教育に於いてもそういうのが重視される。 blog とはまさにそういう言語文化に則ったものである。
日本の「随筆」と欧米の「エッセイ」の違いは「アフォ リズム(警句)」の有無であると云われる。この一ヶ月いろんなサイトを拝見しての印象であるが、従来型の日記サイトは基本的に日本の伝統的「随筆」に近い ものが多いのに対し、blog tool で書かれるページと文章は、その形式上の特徴から、自ずとアフォリズムに富んだものとなるようである。これはネットで使用される日本語におよびそれを書く 日本人の思考方法にとって革命的な(大げさかな)変化となるのかも知れない。形式が内容を規定するのである。
『1984年』 より「ニュースピークの諸原理」
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/1984.html
でもこのことからふと思いついたのであるが、今流行の Blog についても同じようなことが言えるのかも知れないということ。「ニュースピーク」はSF世界の国民にネガティブな影響を及ぼすのであるが、Blog は特に日本人の思考パターンにとっては逆によい影響を与えるのかも知れないのだ。Blog 形式の特徴としてタイトル、アブストラクト(要約)、本文の三つに分かれると云うことが重要である。
タイトルと本文は特にめずらしいものではない。問題は 「アブストラクト(要約)」。これは日本人はあまり書かないし学校の国語の授業でも要約の訓練は受けないのが普通だ。新聞記事のリードに当たるものだが、 新聞でも記者ではなくたいてい編集者が付ける。それで普通我々は本文だけを書くのであるが、多くの場合なかなかエンジンがかからないためか起承転結の 「起」の部分がだらだら続いてしまうことが多い。日本人の論文が分かりにくいと評される理由の一つだ。
ところが blog ではこれ(要約)を一番最初に書かねばならない。後から書いてもいいが、これが本文の一番上に表示されるので出だしてとしてまずこれを書くことになる。 XML/RSS でフィードされるのもこの部分だ。自分の主張をまず明確にし、本文を読んでもらうためのキャッチとしなければならない。この点欧米人はこれがうまく、よく できた英語の新聞記事では最初の5行を読めばだいたい全部分かるように書いている。新聞記者ばかりでなく学校教育に於いてもそういうのが重視される。 blog とはまさにそういう言語文化に則ったものである。
日本の「随筆」と欧米の「エッセイ」の違いは「アフォ リズム(警句)」の有無であると云われる。この一ヶ月いろんなサイトを拝見しての印象であるが、従来型の日記サイトは基本的に日本の伝統的「随筆」に近い ものが多いのに対し、blog tool で書かれるページと文章は、その形式上の特徴から、自ずとアフォリズムに富んだものとなるようである。これはネットで使用される日本語におよびそれを書く 日本人の思考方法にとって革命的な(大げさかな)変化となるのかも知れない。形式が内容を規定するのである。
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